2015年10月12日月曜日

夜長姫と耳男 坂口安吾

耽美的なものに惹かれる。耽美的な小説、エロティシズムとグロテスクの狭間に。
耽美とは美に至上の価値を置く、ということらしい。

JUDY AND MARYというバンドが流行った。解散しちゃったからそのあとはYukiだね。そのジュディマリ、現役時代は大して好きじゃなかった、というか嫌いだった。だけど、プロモーションビデオに、真っ白な雪の中で、Yukiが頭にピストルを当てて寝そべっているシーンがあったような気がする。間違ってたらすみません。

当時、私はそのシーンを繰り返し思い出していた。思春期ですね。なんの曲だったか、その前後はどうだったか、さっぱり思い出せないのだけど、真っ白な雪の中、ピストルの引き金を引いたら赤い血が飛び散って、そのコントラストは、まるで薔薇の花弁を散らしたかのように美しいだろう、などと妄想したのである。冷静になって今思うと、飛び散るのが血だけな訳はなく、おぞましい色の臓器も飛び出したりするだろうから、血だけが飛び散るというのは一種のファンタジーなんだと思うけど。

The 厨二病。

私はそれを否定出来ない。

ところで、近代日本文学がずっと苦手だった。というのも、単に仮名遣いが現代と違うから、読みづらいという、ある意味どうしようもない理由である。本を愛してやまないとか言いつつ、旧仮名遣いが読めないとか恥ずかしいが、事実である。
それでもある程度、読んだつもりでいた。そもそも母が私が小学生くらいの頃、文学にはまっていて、家庭内の親子の会話が、太宰の人間失格についてどう思うかを父と母が語るとか、母がフランス文学の読んだ短編のストーリーを語るとかそういう時期があって、中学生くらいになった辺りで、世界の名作文学というものに私は手を出した。風と共に去りぬ、赤と黒、岩窟王などなど。太宰だって、漱石だって、教科書に載っている。その他の作品も読んでもいいんじゃないか、と思うが、そこでネックなのが旧仮名遣いだった。というわけで、翻訳ものばかり読むわけである。

話はずれるが、風と共に去りぬのスカーレット・オハラと、ベルサイユのばらのオスカル、はいからさんが通るの紅緒、ワルツは白いドレスでの湖都の4人のせいで、私の人格形成されたと思っている。美しく、カリスマ的で、逆境に強く、しぶとく潔く、時には汚い手をつかってでも真っ直ぐにひたむきに生きる”働く”女性達。うん、このせいで結婚できてない。もっと守られるお姫様、シンデレラとかにしておけばよかった。いいわけである。

話を戻そう。30代。再び本の虫が疼きだすきっかけの一つは、現所属大学の本屋である。なんというか、色んな本を押してくるのだが、それがことごとくマニアックなのである。Amazonに在庫が3冊しかない「愛書狂」が平積みされているようなチョイスである。隣にはハイデッカーとバタイユが並んでいる。ちょっと、誰が買うんだろう…といいつつ、見た瞬間ろくに確かめもせず「愛書狂」手にとった挙句レジに直行したのは私です。

そんな大学の本屋に平積みされていたのがポプラ社の百年文庫”妖”。

白地の手触りの良い表紙。読みやすい文字の大きさ。”妖”というテーマに沿って三編が選ばれている。ミニマイズされた装丁。美しい。

坂口安吾 夜長姫と耳男
檀一雄 光る道
谷崎潤一郎 秘密

帯には「火照るような怪しさ 仄かなエロティシズム」

おおおおおおおおお!!!!
読んでみたい、これは読んでみたいぞ!!!!

背表紙にはそれぞれの作品の短い解説がついていた。
「好きなものは呪うか殺すか争うかしなければならないのよ」夜長姫が耳男に最後に言うセリフが引用されている。

エロティシズムと夢魔が交錯する、妖気に満ちた世界。

即買である。まるで大人の厨二病を狙いすましたような本ではないか。
しかもラノベとかじゃなくて。近代日本文学から。ついに来た、近代日本文学マイブーム!

坂口安吾「夜長姫と耳男」を最初に読んだ時は、混乱した。
まるで自分の心の奥底にしまっておいた、耽美的かつ残酷な厨二病の世界が繰り広げられていたから。何度「これってあたし!?」と思ったことか。夜長姫は自分なんじゃないかと思って、それから数日は混乱していた。

この魂が揺さぶられるような感覚。自分の感性にあった作品との出会いの喜びと、自分の個性は実は他人のモノマネで借り物であったのではないか、という錯乱。読書の醍醐味だ。

耳男が初めて夜長姫に会い、目を奪われるシーンの耳男。

「珍しい人や物に出会った時は目を放すな。(中略)大蛇に足をかまれても目を放すな」

そう!それだよ!!!

ストーリーは、夜長の長の姫ために、菩薩像とそれを収める厨子を作成するために、集められた匠たち。一番すばらしい作品を作った者には、美しい機織りの娘エナコが授けられる。ということでスタートする。
夜長姫も美しいという設定なのだが、魔的な美しさ、残忍性がある美しさなのだろう。(そしてエナコは普通の”美しい”)
耳男が夜長姫の為に作るミロクには、製作過程で蛇の生き血がかけられたりして、かなりグロテスク。
最後に、「ヒメが村の人間をみな殺しにしてしまう」とおもった耳男が夜長姫を刺し殺すところで終わるのだが、そこの夜長姫の最後のセリフが素敵である。

「サヨナラの挨拶をして、それから殺して下さるものよ。私もサヨナラの挨拶をして、胸を突き刺していただきたいのに」
「好きなものは咒うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノが素晴らしいのもそのためなのよ。いつも天井に蛇を吊るして、いま私を殺したように立派な仕事をして……」

完璧である。夜長姫。

耳男の振る舞いや、背景にある流行り病や飛騨地方の風土記としての価値など、論ずる点はたくさんあるのだろうけど、私は只々、夜長姫になった気持ちで読むのが好きだ。自分を真っ赤になりながら、汗を垂らしながら、何も言えずにじっと見つめてくる耳男をみている夜長姫の残忍性。自分の生に執着なく、だからこそ他人の生にも執着がない夜長姫。

厨二病なエロティシズムとグロテスクな女の主人公に浸りたいなら、もう一つオススメはオスカー・ワイルドのサロメ。

サロメもうっとりと、血みどろの世界に溺れる作品なのだけど(挿絵も好み)数年前に後輩に貸したまま返って来てないので手元にない。
サロメが、自分を愛してくれない預言者ヨカナーンに、それならば義理の父の王に、「踊りが上手く踊れたら、ヨカナーンの首を!」といって、「銀のお盆にのったヨカナーンの首」を眺めるシーンがやっぱり最高だろう。

血みどろの映画は苦手で具合が悪くなるけれども、それにもかかわらず血飛沫飛び散るタランティーノのkill billが私の好きな映画であるのも、飛び散る血飛沫というものが、一種のファンタジーなんだと思っているからかもしれない。

赤という文字は血を連想させる。だからこそ、文字から想起される赤は自分の脳内で好きな分量に調節することが出来て、自分だけのファンタジーの世界が構築できるのかもしれない。

魅惑に満ちた赤い血の世界に溺れる快楽をお楽しみあれ。

妖 
坂口 安吾
檀 一雄
谷崎 潤一郎

百年文庫 16
ポプラ社 2010年12月12日 第1版発行
ISBN978-4-591-11898-6


2015年10月4日日曜日

すてきな 三にんぐみ トミー=アンゲラー

一番好きな絵本の話から始めようと思う。

幼いころ、母が選んでくる絵本がことごとく気に喰わなかった。
母は絵本を沢山読み聞かせてくれたと記憶しているのだが、母の選んでくれた本は好きになれなかった。
思春期辺りで、ああ、私は母と好みが違うんだな、と(ファッションにおいて)悟ることになるのだが、つまりそれは色彩感覚が母とは全然違ったのだ。

母は淡い色合い、薄い線を好む。例えばいわさきちひろのような。
私はくっきりした色合い、はっきりした線を好む。例えばマリメッコのような。

私を本の虫にしたのは、主に母のおかげだとおもうのだけど、選んでくれた本は不満だらけだった。といわけで、小学校低学年まで、私は大して本を読まなかった。

そんな中、図書館で借りてきて、私が大人になるまでずっと気になっていた本。それがトミー=アンゲラー作、いまえ よしとも訳、「すてきな 三にんぐみ」。多分、一度図書館で借りてもらっただけだと思う。

まず表紙がいい。青い背景に、黒い三にんぐみ。真っ赤なまさかり。色鮮やかである。青の彩度もいい。
などと思いながら、大学生になって購入し、度重なる引越でも淘汰されることなく手元に残るこの絵本を久しぶりに開いて読んでみた。

ストーリーは、盗賊の三にん組がある時ティファニーちゃんというひとりの孤児を引き取り、これまで盗んだお金で「さびしく かなしく、くらい きもちで」暮らしている「すてごや みなしご」を引き取り、お城で暮らすというもの。ハッピーエンドだ。

久しぶりに読むと、なんだか違う本みたいな気がした。
すてきな三にんぐみの盗賊は、人を殺さない。武器だって、ラッパ銃、こしょう・ふきつけ、おおまさかり。唯一武器っぽいものはおおまさかりだけど、それだって、馬車の車輪を壊すためにしか使わない。そもそも、彼らを見たら「ごふじんは きを うしない、 しっかりものでも きもを つぶし、いぬなんか いちもくさん.....。」なのだから、おっかない武器など必要ないのだ。

だけど、この三にんぐみ、盗む事に目的がない。金銀財宝、何のために盗んでいるか、ティファニーちゃんに指摘されるまで、盗むことに目的がなかったことに気づかない。
盗むことに目的がない盗賊という設定なら、坂口安吾の「桜の森の満開の下」。
盗賊や山賊というのは、使うために財宝を盗むのではないのか?なんで?それって、現代で言うところの「預金通帳の残高を見て喜ぶ」みたいなことなんだろうか。そして、この設定は日本でもニューヨークの作家でも、時代が違っても、割りと当たり前なんだろうか。

盗賊に対して「盗んだ財宝は何に使うの?」という問いを投げるのは、どちらも女。盗賊は男。うーん、しまったジェンダー論みたいになってきたぞ。この疑問に私は今はそれらしいリクツをつけることができない。だから、置いておこう。

さておき。後半のストーリーは皮肉たっぷりな気がした。集まってきた孤児達は、「おそろいの あかい ぼうしに あかマント」。政治思想的なことを示唆しているのか?
そして、「こどもたちは すくすく そだち、つぎつぎに けっこん。おしろの まわりに いえを たて、むらを つくった。」うーん。やっぱり…政治的な(以下省略)。


大人になったってことだな。

それが私のこの絵本に対する今回の感想だった。イラストとデザイン、色で、一番好きな絵本であるわけだけど、この本に作者が込めた意味を(少しだけあとがきで訳者が書いている「皮肉」の意味を)感じるようになった気がした。違うかもだけどさ。

でもやっぱり、この本はデザインが、そしてティファニーちゃんを抱きかかえて連れ去るシーンの色使いが、好きだなぁと思う。
絵本は見た目。「人は見た目が全てです」と書いたのは、槇村さとるのリアルクローズという漫画だけど。またそれは別の機会に。

そういえば、大人になって、母に確認したところ、「そんなにたくさん読み聞かせしたっけ?」と拍子抜けする答えだった。

すてきな 三にんぐみ 
トミー=アンゲラー さく いまえ よしとも やく
1969年12月初版 偕成社
ISBN4-03-327020-5

2015年10月3日土曜日

はじめに

本が好きだ。
子供の頃から本が好きだった。
読書量は年々増え、中学生の頃には活字中毒みたいになっていた。
高校。全寮制の進学校には入ってしまった。テレビは朝食と昼食の時のみ。娯楽は必然的にラジオと本だった。会話は村上春樹の新作についてだったり、ミトコンドリア・イブだったり。会話についていくには、回ってくる本を全て読んでいないといけない。そして、本は回るわけだから、素早く読まなければならない。私の活字中毒なんて知れたものだ。大したことはない。もっと頑張らねば。
大学。折しも90年代後半サブカルブーム。ヴィレッジヴァンガードがまだ怪しい本屋だった頃。CDのジャケ買いが自慢できた時代。当然ながら、また本。サブカルな本や写真集。
大学院。共同研究で京大を訪ねるようになる。恵文社。やはり、スノビッシュだけど、本。

そんな変遷を経て、旅行に行くなら必ず本を鞄に1冊、という性質になってしまった。
大学・大学院時代は、星の王子様とホリーガーデンが定番。どこに行く時もついてきた。読める時間がある旅も、ない旅も。

研究員になった。私の生息する自然科学・植物生理学分野は当然ながら論文を読まなければならない。新米だもの、今まで以上に。本は、隅に追いやられた。その時々のテーマに即した実用書は、なんとなく買ってしまうけど。いわゆる積ん読本が増加。でも、本を買ってしまう。なので、買ったものの一生読まないような教科書まである。でも人生何があるかわからないからいつか読むかもしれないけど。

そして、数年のブランクを経て、本の虫再発。

現在、幸運なことに私は研究を生業として生きている。研究者はたくさんの文章を書く。例えばメール。意外と性格が出てしまう厄介なコミュニケーション手段。
その中で、群を抜いて美しい日本語を書く先生とメールのやり取りをする機会を得られた。
無機的な仕事の内容の合間にそっと差し込まれる、季節やプライベートな話。軽くも重くもない、それでいて身近に感じる文章。

私も、書いてみたい、と思った。

それがこのブログを始めようと思ったきっかけである。
私の愛する本を、私らしく残せたら、と思っている。